やけに仏教に詳しいあの人のブログ

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仕事のスピードが2倍になりました(後編)

みなさまごきげんよう。やけに仏教に詳しいあの人です。

今日はわたしの仕事のスピードが2倍になった話(後編)をいたします。

こちらの続きです。

waraikatahohoho.hatenablog.com

〈ケース:上司フリーザさまのもとで、意見を持つことによって楽になったわたし〉

先ほどサイヤ人が大規模な反乱を起こしたようです。わたしはフリーザさまから、サイヤ人を武力で鎮圧するか、どうにか懐柔するか、あるいはそれ以外の手を打つかを考えるように指示されました。

わたしは「自分がフリーザさまと同じ立場だったらどのような意思決定をするだろう」と思い、自分が意思決定するにあたって必要な情報をとにかくかき集めることにしました。

なぜなら物事を判断をするためには情報量が大切になるからです。

そのためわたしは、武力鎮圧のメリット、デメリット。懐柔のメリット、デメリットを調べ上げ、考えに考えた結果、懐柔したほうがよいとの結論に達したため、速やかに、わかりやすく簡潔にフリーザさまに「懐柔した方がよい」とご報告しました。

この後のわたしが思い描くシナリオとしては「わたしの意見をもとにフリーザさまにご判断いただき、その判断を実現すべく全力で取り掛かかる」というものでした。

フリーザさまはおっしゃいました。

 

「ふむ。あなたの意見はよくわかりました。で、なぜ武力鎮圧をしないのですか?」

 

わたしは武力鎮圧のデメリットをお伝えしました。

 

「なるほど。あなたの言うことも理解できましたが、今回は武力鎮圧でいきます」

 

今回、自分の意見は通りませんでしたが、武力鎮圧も懐柔もどちらの選択にもメリット、デメリットがありますので、正直なところ、わたしはどちらでも構いませんできた。

ただ、もしも自分が選ぶとするのであれば、懐柔であった。というだけです。

この組織のトップはフリーザさまですので、最終判断の決定権を持っているのはフリーザさまです。

それが不満であれば、この組織を抜け、自分が意思決定者になればよいのです。

以上の理由から、今回のケースのように、もし仮に自分の意見が通らなくても(自分の意見に執着していないので)苦しむことはありません。

★★★

具体的に仕事量がどの程度減ったかと言いますと、前回、自分の意見を持たなかった時は

・武力鎮圧のメリットとデメリットの情報収集と分析(4つの作業)

・懐柔のメリットとデメリットの情報収集と分析(4つの作業)

・これら全て(8つの内容)をわかりやすくまとめフリーザさまにお伝えすること

という仕事がありましたが、

今回、自分の意見を持つようになったことで、

・武力鎮圧のメリットとデメリットの情報収集と分析(4つの作業)

・懐柔のメリットとデメリットの情報収集と分析(4つの作業)

・懐柔のメリット(1つの内容)をわかりやすくフリーザさまにお伝えすること

に減ったため、純粋な仕事量が激減しました。

つまり、自分の意見を持つために材料を揃える作業は変わらないのですが、自分の意見を持つことによって、それをフリーザさまにご報告しなくてはならない内容が8分の1になりました。

言い換えると、仕事にかかる時間が減ったため、結果として仕事のスピードが2倍になったということです。

★★★

前回のお話と今回のお話を簡単にまとめますと、今までのわたしは「最終決定者であるフリーザさまが判断しやすくするために黒子に徹し、必要な情報をかき集め、分析し、わかりやすくご報告すること(自分の意見は持たないこと)が重要」だと思っておりましたが、実はそれらは重要ではなく、本当に重要なのは「もしも自分がフリーザさまだったらどのような判断をするかまで考え(自分の意見を持ち)、それをフリーザさまにご提案すること」である(その際に、自分の意見に執着しないことがポイント)ということに気づけた。という話です。

以上です。

こちらの記事をお読みいただいているみなさまといきとしいけるものが幸せでありますように。悩み苦しみがなくなりますように。願いごとがかなえられますように。

それではみなさまごきげんよう。やけに仏教に詳しいあの人でした。

仕事のスピードが2倍になりました(前編)

みなさまごきげんよう。やけに仏教に詳しいあの人です。

今日はわたしの仕事のスピードが2倍になった話(前編)をいたします。

結論としては

「自分の意見を持つようになったため」

です。

もう少し詳しく言うと

「自分の意見を持つことによって作業時間が半分になったため」

です。

仏教的に、見解を持つことは苦しみのもとなのですが、最近、見解を持つことなのではなく、見解に執着することが苦しみのもとなのではないかと思うにいたりました。

★★★

これから

今までの

「意見を持たずに苦しんでいたわたし」

今の

「意見を持ったことで楽になったわたし」

を説明していくにあたり、具体的なケースを出して紹介してまいります。

今回は「苦しんでいたわたし」についてご紹介し、次回「楽になったわたし」をご紹介いたします。

〈ケース:上司フリーザさまのもとで、意見を持たないことによって苦しんでいたときのわたし〉

先ほどサイヤ人が大規模な反乱を起こしたようです。わたしはフリーザさまから、サイヤ人を武力で鎮圧するか、どうにか懐柔するか、あるいはそれ以外の手を打つかを考えるように指示されました。

わたしは「最終的な意思決定者はフリーザさまなので、もしも自分がフリーザさまの立場だったら嬉しいことをしよう」と思い、フリーザさまが判断するにあたって必要な情報をとにかくかき集めることにしました。

なぜなら物事を判断するためには情報量が大切になるからです。

そのためわたしは、武力鎮圧のメリット、デメリット。懐柔のメリット、デメリットを調べ上げ、速やかに、わかりやすく簡潔にフリーザさまにご報告しました。

この後のわたしが思い描くシナリオとしては「わたしが取りまとめた情報をもとにフリーザさまにご判断いただき、その判断を実現すべく全力で取り掛かかる」というものでした。

しかし、フリーザさまはこのようにおっしゃいました。

 

「ふむ。内容は理解できました。で、あなたの考えはどうなのですか?」

 

「え?」わたしにはフリーザさまの発言の意味がわかりませんでした。なぜなら、わたしにとっては、別にサイヤ人を鎮圧しても懐柔しても、正直どちらでもよかったからです。

どちらの選択にもメリット、デメリットがありますし、そもそも最終的にそれを判断するのはフリーザさまです。

もし仮にわたしが「フリーザさま!サイヤ人は武力で鎮圧です!」だなんて言ったとして、フリーザさまから「いやいやここは懐柔ですよ」などと言われようものなら、結局わたしの意見は通らず、フリーザさまの判断に従わなくてはならないので「いやいやいやいや、あんたの考えはもう決まってるんかーい!だとしたら今のこのやり取りなに?なんなん?そもそもこのやり取りそのものがムダやん!なんだよー!フリーザさまの考えが決まってるならわざわざワイに聞かんといてー!いてーいてーいてー(エコー)」となるからです。

★★★

そのため、今まででのわたしは「いや、どちらもメリット、デメリットがありますので、フリーザさまが決めたことに付き従いますっ!!!」と答えておりました。

するとフリーザさまは「きえぇい!あなたには自分の考えがないのですか!もっと考えなさい!」と毎回おかんむりになりました。

そのような時にわたしは「もっと考えろってなんだよ、あんたよりずっとオレの方がメリット、デメリットについて考えとるワイ!ったく、これ以上なにを考えろって言うんだよ…むしろ素早くこれだけの情報を集めてきて、わかりやすく報告したことに感謝&評価しろよ…」と思っていました。

ただ「意見はないのか意見はないのか」と毎回言われるので「じゃあ、サイヤ人は武力鎮圧ですかね」と言うと「んんーそうですかねー?わたしは懐柔ですねー」とか言うものだから「きぃーっ!!!んだよ!反対するなら最初からオレの意見を聞くんじゃねぇよ!!!(ハンカチを強く噛みながら)」となることを繰り返していました。

★★★

と言うように、社会人になってからそのような苦しみがずっと続いていたのですが、先日ようやくこの苦しみから完全に卒業をすることができたのです。

その結果、フリーザさまはご満悦、わたしも評価されてうれしい、そして、仕事の量も半分になったので更にありがたい。ということになりました。

具体的になにをするようになったのかについては、同じようなケースを交えて次回お話しさせていただきます。

以上です。

こちらの記事をお読みいただいているみなさまといきとしいけるものが幸せでありますように。悩み苦しみがなくなりますように。願いごとがかなえられますように。

それではみなさまごきげんよう。やけに仏教に詳しいあの人でした。

「気づきのパワー」実況中継実践編(慈悲による自他の抜苦与楽編)

みなさまごきげんよう。やけに仏教に詳しいあの人です。

今日は前回の

 

気づきの実況中継実践編(智慧による自己防衛編)

waraikatahohoho.hatenablog.com

 

に続き

気づきの実況中継実践編(慈悲による自他の抜苦与楽編)

についてお話しさせていただきます。

前回の「智慧」が「苦しみから自分を守るバリア」であり、同時に「混乱により生じる可能性がある自分発生の二次災害を防いでくれれるもの」であったのに対し、

今回の「慈悲」は「相手の中の苦しみの観察によって、自分も相手も苦しんでいるんだ。ということに気づけることで、自分と相手に対する憐れみの心が生じ、それまで生じていた怒りや悲しみが消え、そのエネルギーが徐々に形を変え、やがて慈悲のエネルギーに昇華し、当初感じていた怒りや悲しみが、いつのまにか思いやりの気持ちになる」というものです。

★★★

イメージとしては、自分に対して向けられた怒りのエネルギーの感情によってダメージを受けるのではなく、むしろそのエネルギーをうまく活かして、慈悲のエネルギーに変換してしまう感じ、言うなれば、ドラゴンボール人造人間19号、20号のような感じであり、相手の力をそのまま返す合気道のような感じとも言えます。

イメージ感としてお伝えしたいことは、いずれも「自分に向けられたエネルギーで自分が傷つくことなく、そのエネルギーを違う形に変えて返す」ということです。

やり方としては、まず、ただただ自分の内側で生じている不快感や頭の中のおしゃべりに気づき続け、同時に「全てのいきとしいけるものの言動は、苦しみからの回避のためにある」ということを考えながら、自分と相手の中の苦しみにフォーカスし観察することです。

それではこれから具体的に、わたしが苦しみに見舞われた時に、どのような対応をしているのかということを実況中継していきます。

以下は実際にあったやり取りです。

「」は実際に言葉に出しているセリフ

  ( )はわたしの中を駆け巡る感覚や思考(わたしが気づけている感覚や頭の中のおしゃべり)です。

★★★

Aさん「前から思ってたんですけど、あなたの言動はおかしいです。直して下さい」

わたし「え?(うっ、苦しい、うわー、わたし今苦しんでる!苦しんでるー!不快ー!不快すぎるー!突然やってきた苦しみから回避したくて、怒ったり、悲しんだり、無視したりしようとしてるー!うぅー苦しんでるー!でもでも苦しんでる最中は変な言動をしてしまうから、苦しみが抜けるまでは明確な返事はしないで時間稼ぎしよう)」

A「え?じゃなくて、直して下さいって言ってるんです」

わ「え?えーっと?ん?なにがですか?(まてまてまてまて、相手の言動も苦しみの回避だから、この人も苦しんでるのか。そうだよ、そもそもこの人が幸せだったら人にこんなこと言わないもんな。少なくともこの人は今幸せではないんだな。かわいそうに。でもわた し自身も今苦しんでるから、それが落ち着くまで返事は先延ばしにしよう。今は苦しいですが、この世は諸行無常なので、この苦しみもずっとな維持できませんしね)」

A「いや、なにがですか?じゃなくて、こうこうこういうところを直してって言ってるんです」

わ「あーはいはい、なるほどなるほど(あ、少し落ち着いてきた…落ち着いてきましたよ…そうか、取りあえずわかったことは、わたしも苦しい、この人も苦しい、みんな苦しいんだ。あぁ、なんて悲しいんだ。ここには登場人物が二人しかいないのに、わたしもこの人もどちらも苦しんでいるだなんて…)」

A「で、こうこうこうだから」

わ「はいはいはいはい、ふむふむなるほどなるほど(しかし、本当にわたしもこの人もかわいそうだなぁ、ほんとわたしとこの人の苦しみが抜ければいいのになぁ…あ、なんだかこの時点で最初の怒りとか悲しみが消えて、憐れみの心が生じてきてるな。なんとか、自分とこの人の苦しみを抜く方法はないかなー。よし、今からその方法を探すことに頭を使うか)」

A「…ということで直してもらえますか?」

わ「あ、あなたがおっしゃりたいことは理解できました。考えます(よーし、考えよっと。さぁーて、結論が自他の抜苦与楽になるような方法を考えますよー)」

A「よろしくお願いしますよ」

数分後

わ「あのー先ほどの件ですが、Aさんをイヤな気持ちにしてしまってすみませんでした(この人が苦しんでいたのは事実ですからね)」

A「はい。わかっていただければいいですよ」

わ「ただ、わたしもこれこれこういう理由であのような言動をしていたので、それだけはご説明しておきますね(相手に言われて本当にそうだなと思うところは取り入れ、反対に納得できず、言わないままでいると苦しいことは言っておきましょう。大切なのは自他の抜苦与楽。このままでは他の抜苦与楽(自己犠牲)になってしまいますからね)」

A「はい。わかりました。」

という感じです。

ただし、たまーにAさんの頭がおかしいパターンもあるので、その場合はAさんに巻き込まれないようにっこりと笑って敬遠しておきましょう。

★★★

このやり取りにおけるポイントは、最初のムカッとした時に、そのまま怒りや悲しみに身を任せた反応をしなかったことと、突発的に生じた「ムカッ」に気づき、それが落ち着くまで理性を持って待ったこと(智慧による自己防衛)と、

自分も相手も確実に苦しんでいるという観点で自他を観察することで「なんて悲しい世界にわれわれ二人はいるんだ!」「この苦しみがなくなってくれればいいのに!」とその怒りのエネルギーを慈悲のエネルギーに昇華させたことです。

この段階にくると、自分の頭の中の考えごとが、自分と相手の苦しみを抜く方法にフォーカスされるので、最初の怒りについて自然と考えなくなります(この時点でもう苦しみが抜けてますね)。

正確には、これまであった苦しみのエネルギーが消えたのでなく、そのエネルギーが慈悲のエネルギーに変容したということです。

★★★

今回はこのような感じで、自分と相手の中の苦しみにフォーカスして実況中継しました。

ここで大切なのは「本当の本当の本当に慈悲の心が芽生えるまでは、中途半端に無理にとりつくろった言動をしないこと」です。

なぜならば、同じ「さきほどはすみませんでした」という言葉でも、その言葉の根底が「愛」か「恐れ」かで結果が変わって来てしまうからです。

たとえば「この人に嫌われたくない」とか「とにかくこの場を穏便に済ませたい」などという気持ちで「すみませんでした」と言った場合、その根底には「恐れ」があるため、結果として恐れを引き寄せることになります。

せっかく(?)謝っているのに、そのような事態になったら損ですよね。

ですので、そのような時は、さっさと偽善的に謝ってしまいたい気持ち(苦しみ)をぐっと理性を持ってこらえ(苦しみが抜けるまで)、神妙な面持ちで黙っていた方が無難です。

やがて、本当の本当の本当に、自分も相手も苦しんでいるということがわかると、心の底から、相手の苦しみを抜きたいという気持ちが生じるので「愛」のある「すみませんでした」を言えるようになります。

それは結果として愛のある結果を引き寄せます。仏教的に愛という言葉は少しふさわしくないとは思いますが、ニュアンスとしてとらえていただければと存じます。

★★★

仏道は「智慧(気づき)」と「慈悲(自他の抜苦与楽)」の両輪の実践です。

智慧は自分を苦しみから守るバリア。

慈悲は自分と相手を苦しみから救う癒し。

たとえるなら

智慧は「お医者さん」

慈悲は「看護師さん」でしょうか。

具体的に、

智慧は手動瞑想とヴィパッサナー瞑想で、

慈悲は慈悲の瞑想で鍛えることができます。筋トレのように、やればやるだけ鍛えられます。そして、身についた力は落ちることはありません。

瞑想や日々の気づきの実践により、自分の中に智慧と慈悲を同居させ育むことで、みなさまが苦しみを乗り越えることができますよう心から祈念しております。

以上です。

こちらの記事をお読みいただいているみなさまと、いきとしいけるものが幸せでありますように。

それではみなさまごきげんよう。やけに仏教に詳しいあの人でした。

「気づきのパワー」実況中継実践編(智慧による自己防衛編)

みなさまごきげんよう。やけに仏教に詳しいあの人です。

今日は気づきの実況中継実践編(智慧による自己防衛編)についてお話しさせていただきます。

これを体得すると、自分がなにか不快なことに見舞われた時に、さらなる深み(二次災害)にはまってしまうリスクを激減させることができます。

やり方としては、ただただ自分の内側で生じている不快感や頭の中のおしゃべりに気づき続けることです。

これから具体的に、わたしが苦しみに見舞われた時に、どのような対応をしているのかということを実況中継していきます。

以下は実際にあったやり取りです。

「」は実際に言葉に出しているセリフ

  ( )はわたしの中を駆け巡る感覚や思考(わたしが気づけている感覚や頭の中のおしゃべり)です。

★★★

Aさん「前から思ってたんですけど、あなたの言動はおかしいです。直して下さい」

わたし「え?(むっかー!なに言ってんだこの人。このオレサマに向かってなんてこと言うんだ。むっかー!っていうか、そもそもなんだこの人。物の言い方っていうのもがわかってないな。そんな言い方で人が言うことを聞くと思ってるんですか?え、でもこの人が言ってることが正しいとしてわたしの言動がおかしいってほんと?ほんとなの?え、もし自分が気づいてないだけでほんとだったらどうしよう…えーん!悲しいよーえーん!くっそー、この眼の前にいるわたしを不快にした原因であるこいつをわたしの前から消したい消したい消したーい!でも実際には消せなーい!うぅー苦しい苦しいー!)」

A「え?じゃなくて、直して下さいって言ってるんです」

わ「え?えーっと?ん?なにがですか?(はっ、気づけた!自分の心の中のひとりごとと、不快物質が今もこうしてわたしの中を駆け巡っていることに気づけた!あらあら、呼吸も浅くなってるし、鼓動も速くなってるし、視野も狭くなってる…あぁそうかそうか…今のわたしはいつもの状態ではないのか…つまり混乱しているということか…ということは頭が悪くなっているし、IQが下がってるということか…今のこんな状態でなにか反射的に発言してもロクな結果は生まないことは確実…だって今のわたしはおバカさんになってるのですから…そうそう、こんな時にできることは、この混乱状態が戻ることをただただ待つこと…この混乱したおバカさん状態の時に下手に余計な言動をしてしまって二次災害を起こさないこと…そうだ!今やるべきことはこの混乱状態が回復するまでただただ理性をもって耐え忍ぶことなんだ!忍耐忍耐わたし!堪忍堪忍わたし!がんばれがんばれわたしー!)」

A「いや、なにがですか?じゃなくて、こうこうこういうところを直してって言ってるんです」

わ「あーはいはい、なるほどなるほど(よーしよしよしよしよし、少しずつ呼吸も元通りになってきましたよ…ふっふっふわたしは知っているのですよ…この世は諸行無常なので今のわたしの混乱状態がずっと継続できないということを…よーしよしよしいいですよいいですよ…ただ完全回復まではもう少し時間がかかりそうです…そうですね…ここはのらりくらりと神妙に考えているフリをしつつ時間稼ぎをして回復を待ちますか…なんというかあたかも真剣に聞いているフリをして結論を出さない時間稼ぎは得意ですからね…)」

A「で、こうこうこうだから」

わ「はいはいはいはい、ふむふむなるほどなるほど(よーしよしよし落ち着いてきた…完全に苦しみが抜けました…体を駆け巡っていた不快感も完全に抜けました…端的に言うと完全に回復しましたよ…体感IQも元に戻りました)」

A「…ということで直してもらえますか?」

わ「あ、あなたがおっしゃりたいことは理解できました。考えます。」

A「よろしくお願いしますよ」

数分後

わ「あのー先ほどの件、認識の齟齬があったらいけないのでメールしておきましたのでご確認お願いします(さっきのやり取りのように言葉で言った言わないになると、もしこれが争いごとに発展して第三者に判断してもらわなくてはならなかった場合、どちらの言い分が正しいか第三者が判断できなくなりますからね…ひとまず文字というこちらの得意なフィールドにこの人を引き込みましょう…わたしはいつもツイッターという過酷な状況に身を置きながらものすごい緊張感のもと文章を日常的に書いているのです…クソリプ耐性、炎上しない言葉のチョイス、第三者を味方につける立ち回り方、あなたとはそのあたりの格が違うのです…クソリプで鍛えられたツイッタラーをナメるなよぉおおおー!!)」

A「うーん。そうですね。こういうことです。」

わ「ありがとうございます。わかりました。それではひとつひとつ、なぜわたしがこのような言動をしたのかについてご説明させていただきますね。それをもとにわたしのどの言動がどうおかしいか、そして、その場合、どれをどう改善していくか建設的なお話をしていきましょう。にっこり。(よーしよしよし、これでまともな議論ができる舞台がととのいました。文章を通してやり取りをすれば感情的な部分は軽減されますし、仮に相手が感情的で変なことを書いてきたら、その文章を第三者に見せて、どちらがまともか判断してもらえればいいですからね、あぁーよかったよかった。怒りに身を任せて変な反応をしないで理性的に対応できてよかった)」

という感じです。

★★★

このやり取りにおける最大のポイントは、最初のムカッとした時に、そのまま怒りや悲しみに身を任せた反応をしなかったことと、突発的に生じた「ムカッ」に気づき、それが落ち着くまで理性を持って待ったことです。

この、ムカッに気づけるようになるには気づきの力が必要で、その力は瞑想によって鍛えることが可能です。

ちなみにわたしがこのように耐え忍んでいられるのは、別にわたしが聖人君子だからなのではなく「混乱した状態でなにか行動を起こしても、その時の自分はおバカさんになっているので、ロクな結果にならない」ということを心の底からわかっているからです。

つまり、冷静に損得勘定で考えた時に、行動しない方がおトクだと体感として知っているので理性を持って耐えているということです。

これは、やみくもにただただ耐える我慢とは違います。仏教的に我慢とは怒りで悪。反対に理性を持って耐えることを忍耐、堪忍と言い、これらは最上の修行としています。

今回はこのような感じで、自分の中の苦しみにフォーカスして実況中継しましたが、もっと深く観察していくと、自分だけでなく、相手の中の苦しみにもフォーカスできるようになります。

そうなると、相手に対する慈悲心が芽生え、心の底から相手に対し、慈悲の対応ができるようになります。

仏道では結果が「自他の抜苦与楽」となるような言動を推奨しているため、次回は同じケースを少し深堀りし、慈悲対応した場合についてご紹介させていただきます。

以上です。

こちらの記事をお読みいただいているみなさまと、いきとしいけるものが幸せでありますように。

それではみなさまごきげんよう。やけに仏教に詳しいあの人でした。

「気づきのパワー」について前提として知っておくと理解が深まること

みなさまごきげんよう 。やけに仏教に詳しいあの人です。

今日は瞑想で得られる「気づきのパワー」についてお話させていただきます。

色々な精神世界系の本を読んでいると、苦しみに対する対処方法として共通して、

  • 心に発生した感情を肯定も否定もせずにただただ眺める。
  • それにただただ気づき続ける。
  • 感情と一体化せずに観察し続ける。
  • それだけで苦しみは光に包まれ消えていく。

的なことが書かれています。

最初にこれらのことを読んだ時に「へぇーそんなもんかねぇ」「でも、全然問題解決になってなくない?」「ただ眺めているだけだなんて現実逃避では?」と思っていました。

ただ、もしもこれらのことがウソなのであれば、ここまで共通したことは書かれていないだろうなーとも思い、試しに実践してみることにしました。

結論として、本当に苦しみが消えていくのでとってもおすすめなのですが、これからそのカラクリについてご説明させていただきます。

★★★

まず、前提として知っておいていただきたいのが、

  • 苦しみ(不快感)が生じることそのものを避けることはできないこと。なにかしらの原因があってその結果が生じているので、それが生じてしまうこと自体は避けられないこと。これは尿意が生じることを避けることができないことと同じです。
  • 次に、苦しみは常に変化を続けており、長く継続することができないこと。
  • 最後に、自分が苦しみに気づけている時は、自分は苦しみと一体化していないこと。

これらのことを前提として知っておくと理解(体感)がグッと早まります。これらのことを頭だけで理解するのではなく、実際に瞑想などにより観察して体感すると「あ!本当だ!(一種の悟りですね)」となります。

まとめますと、

まず「全てのことには原因があるがゆえに、その結果として苦しみが生じているので、苦しみが発生してしまったこと自体はしょうがないのだ」ということを知っていて、

次に「たしかに今、まぎれもなく自分の体の中に不快感が駆け巡っているけれど、この不快感も必ず変化して消えてしまうのだ」ということを知っている。

変な言い方になりますが「自分がずっと苦しんでいたいと思っていても苦しさは消えていってしまう」ということを知っている。ということにもなります。

★★★

人が不安になるのは、恐怖の正体がわからない時と、終わりが見えない時です。まず、苦しみの正体についてですが、苦しみの正体とは「なにかしらの原因があったことにより結果として生じた自分の意思とは関係なく生じた不快物質」です。

そして、苦しみの終わりについては「この苦しみは、放って置いたら、もっと言えば、別に放って置かなくても勝手に変化し消えていってしまう(諸行無常)性質である」ということを知っていること。

つまり「苦しみは必ず終わりをむかえるものである」ということを知っていると不安感がなくなります。これだけでかなり安心感が違いますね(反対に喜びも必ず終わりをむかえす)。

最後に、自分がエンドレスで苦しんでいる(ように感じる)時は、苦しみと一体化している時なので、苦しみと一体化しないことがポイントになります。その具体的な方法が「自分は今、不快感に包まれているということに、ただただ気づくこと」です。

そうすることにより、自分の中で苦しみを再燃させることがないので、最初の苦しみが消えるのを冷静に待つことができるのです。これらのことについて、わたしは「二次災害を防ぐ」という言い方をよくするのですが、気づきのパワーで出来るようになることをまとめると、

  • 今、自分が不快であることに気づけるようになる。
  • 苦しみと一体化しなくなる(一体化している自分に気づけるようになる)。
  • この苦しみもどんどん変化していっていることに気づけるようになる。

ということになります。

以上です。

次回は、実際にわたしが苦しみに見舞われている時の実況中継をご紹介させていただきます。

こちらの記事をお読みいただいているみなさまと、いきとしいけるものが幸せでありますように。

それではみなさまごきげんよう。やけに仏教に詳しいあの人でした。

瞑想で得られるもの(気づき)

みなさまごきげんよう。やけに仏教に詳しいあの人です。

今日は瞑想で得られるものについてお話しさせていただきます。

まず、ミモフタモナイことを言うと、瞑想は何かを得るものではなく、ただただ気づくことです。

究極的には、全ての苦しみを乗り越えた境地である「涅槃」にいたることを求め精進する(意欲ですね)のですが、基本的には求めるものではありません。

たとえば「神秘体験をしたーい!」とか「神的な存在にアクセスしたーい!」とか、そう言ったものを求めるものではないことにご注意ください。

その上で、わたしが瞑想で得られたものをご紹介します。

結論としては「気づきの力」です。仏教的には「定(じょう)」というパワーです。

この力がつくと、自分の体の動きや感覚そして最終的には思考に気づくことができるようになります。

パワフルプロ野球の能力のように、一回身につくと失われることはありません。

仏教では「無知」と言う「今自分が何をしているかわからない状態」が苦しみを生むと教えています。

この「無知」の苦しみを打ち破るパワーになるのが「気づき」の力で、それを体得するために必要なトレーニング(修行)が瞑想なのです。

次回はこの気づきのパワーについてご説明いたしたいと思います。

以上です。こちらの記事をお読みいただいているみなさまと、いきとしいけるものが幸せでありますように。

それではみなさまごきげんよう。やけに仏教に詳しいあの人でした。

わたしの宗派は「釈迦派」です

みなさまごきげんよう。やけに仏教に詳しいあの人です。

本日はわたしの宗派についてお話しさせていただきます。

仏教の話になると「やけに仏教に詳しいあの人さんは何宗ですか?何派ですか?」と聞かれますが、わたしは特段信仰する宗派はございません。

わたしはただただお釈迦さまという人間が好きで、ずっと追っかけをしているだけですの人間でして、強いて言えば「釈迦派」となります。

もっとくだいた言い方をするのであれば、わたしはお釈迦さまの大ファンで、ツイッターやブログを通じてお釈迦さまの推し活をしているという感じです。

ツイッター

https://twitter.com/waraikatahohoho

苦しみの原因を発見し、また、それを乗り越える方法も発見し、そしてとうとう苦しみを乗り越えたお釈迦さまが何を言ったのか、それを知りたくて、そして自分も苦しみを乗り越えたくて仏道を勉強&実践中という感じです。

そのため人さまに対しても、誰がどの宗派であるかなどは全く気になっていません。

たとえるなら、野球少年がイチロー選手に憧れたり、バスケット少年がマイケル・ジョーダン選手に憧れたりするように、苦しみを乗り越えたお釈迦さまという人間に憧れて、自分もそういう風になりたいなぁー。と思い、その教えを実践しているのがわたしです。

2017年から実践を続けていますが、何かを信じる必要もなく、幸せになるためにあの世に行くまで待つ必要もなく、今、この瞬間、この場で、いつでも誰でも、しかも無料で(笑)実践でき、わたしも実際に苦しみが抜けることを体感したため、これを広めたいなーと思った次第です。

具体的には、八正道という実践をすることで苦しみを乗り越えることができます。

とは言え、わたしはまだ完全に苦しみを乗り越えられているわけではないので、日々、瞬間瞬間少しずつ少しずつ、遊び心を持って実践中です。

以上、今回はわたしの仏教に対するスタンス(釈迦派)をご紹介させていただきました。

こちらの記事を読まれているみなさまといきとしいけるものが幸せでありますように。

それではみなさまごきげんよう。やけに仏教に詳しいあの人でした。