サウナは最高の瞑想スポット
みなさまごきげんよう。やけに仏教に詳しいあの人です。
今日はサウナ施設は瞑想に向いてますよーというお話です。
わたしは大のサウナ好きで、だいたい週5日、多い時は1日に2回、出社前と家族の就寝後にサウナに行くほどのヘビーサウナーでした。
しかし、引っ越しをしてからは近所にサウナがなくなってしまったため最近はとんと行けておりませんでした。
そのような中、今日半年ぶりにサウナに行けたので、今わたしは最高にキマっている状態でこの記事を書いています。やはりサウナは偉大です。
わたしのサウナルーティンは、ぬるま湯、熱い湯船、水風呂に入りたくなるまでサウナ、水風呂で体育座り、足湯をしてから体をよーくふいて休憩、水分補給。気が向いたらもう一回というようなスタイルです。
今日気づいたのですが、サウナに入っている時はスマホをしていないので、物理的に目が休めているのですね。ツイ廃のわたしは、なにか思いつくとすぐにツイートしたくなるので、それこそ一日中スマホをさわっています。家のお風呂の中でもです。
そう考えると、サウナは、スマホから強制的に離れられる場所でもあるのだなと気づきました。
わたしが仏道に傾倒した理由の一つとして、サウナでの「ととのい体験」があります。
わたしにとっての「ととのい」とは、自分とまわりの境界線がなくなり、全てが一つになるような不思議な感覚。一言でいうなら、We are all oneな気持ちになってしまうことです。ラブアンドピースでもいいです。
一説によると、サウナでととのっている状態はマリファナでキマっている時の状態に似ているらしいので、わたしはマリファナの経験はありませんが、なるほどいわゆるヒッピーの方たちがラブアンドピースな気持ちになるのはわかるなぁーと思ったりしています。
そのような感覚を体感できたことから、それまで知識としては知っていた古今東西の宗教家たちが言うところの「境界のないありのままの世界」や、そういった種類の境地の存在を「あぁ〜あの感じねわかるわかる〜」とスッと信じることができるようになったため、素直に彼らの言葉を信じることができるようになり、仏道で紹介される境地も「あぁーなんかわかる気がするー」という感じすんなり入るようになったのです。
これを踏まえてタイトルに戻りますが、サウナは最高の瞑想スポットです。今のサウナ施設は黙浴のため、誰も一言もしゃべらないので特におすすめです。
少し目を閉じていると、本当にそこに人がいるのかがわからないくらい、みなが静かに黙々と過ごしています。まるでそれは修行者のようです。
次に、そもそもサウナが熱すぎるので余計な考えごとができないことも瞑想に向いています。そして、なにより絶対にうっかり眠ってしまうことがないこともおすすめなポイントです。
湯船で瞑想、サウナで瞑想、水風呂で瞑想、休憩中に瞑想。サウナは本当に瞑想と相性がよいなとつくづく感じました。
サウナ施設は瞑想をする環境としてもすばらしく、たとえば風呂おけのこーんとなる音や湯船にお湯が注がれる音。他の人が使うシャワーの音や、サウナストーンがパチパチと鳴る音など、心地よい音に包まれています。
そしてゆっくり目線を湯船にやれば、ゆらゆらとゆれる湯面が、1/fゆらぎで深いリラックス状態へ誘(いざな)います。
それになにより全裸なので、この解放感もなかなか魅力的です。またずっと目を閉じていても全く不自然ではないこともすばらしいポイントです。
と、ここまでご説明させていただきましたとおり、サウナ施設はなにも意識せず、ただ普通にそこで過ごしているだけで瞑想状態になるので、単純なお風呂の効能だけでなく、そのような瞑想的な観点からも疲労回復の効果があるのではないかと思いました。
みなさまに瞑想の習慣があるかどうかはわかりませんが、もしも瞑想をする場所を探しているのであれば、サウナ施設は最高の瞑想スポットですので、ぜひぜひリラックスしながら瞑想を楽しまれてはいかがでしょうか。
以上です。
こちらの記事をお読みになられたみなさまといきとしいけるものの悩み苦しみがなくなりますように。
それではみなさまごきげんよう。やけに仏教に詳しいあの人でした。
不幸と災いを招く確率を下げる方法
みなさまごきげんよう。やけに仏教に詳しいあの人です。
今日はわたしが実践している「不幸と災いを招く確率を下げる方法」をご紹介させていただきます。
前提としてまず知っておいていただきたいのは「人間は3つの要素から成り立っている」と言うこと。それは思考と言葉と行動の3つです。
そのため、人間は思考を変えると人格の3分の1が変わってしまいますし、言葉を変えるとさらに3分の1が、そして行動を変えるとさらに3分の1が変わってしまうのです。
つまり、今ここに確固たる不変の自分がいるように錯覚してしまいますが、実はこのように簡単に自分というものは変えてしまうことができるのです(条件を変えても変わらないような確固たる不変の自分はない=無我)。
このことを知ったわたし(ツイ廃)は、どうせツイッターをやるのであれば、丁寧な言葉づかいで発信しようと決めました。
なぜなら、人は思考、言葉、行動で形成されているので、まずはこの「言葉」の部分を意図的に丁寧にしてしまおうと考えたからです。
言葉を丁寧にすることの副次的なメリットとして炎上(他人との不必要な摩擦)の予防もあります。
また「同じような波長の人が集まる」という法則の通り「自分の周りに丁寧な人が増える」というメリットもあります(実際に丁寧な言葉を使うわたしのフォロワーさんの言葉づかいは総じてみなさま丁寧です)。
「この球は、いつか自分が投げた球」という言葉がありますが、自分が丁寧な言葉を使っていると、自分が丁寧な言葉に囲まれるのです。
少し話は変わりますが、以前、わたしと同じようなスタイルの仏教系のアカウントの方がいらっしゃった(今はアカウントを削除されています)のですが、その方はわたしと違いなかなか過激な言葉づかいで、とても過激なツイートをされていました。
同じような仏教アカウントでしたから、ある意味でその方とわたしのフォロワーさんは重なってもいいのかなと思いましたが、不思議なもので、その方とわたしのフォロワーさんは全く別だったので驚いた記憶があります。
つまり、同じような仏教系アカウントであるにもかかわらず、丁寧な言葉づかいのわたしを好むフォロワーさんと、過激な言葉づかいを好むフォロワーさんは交わることがなかった。ということです。
別な言い方をすれば「丁寧な言葉を使う人は丁寧な言葉を好み」、「過激な言葉を使う人は過激な言葉を好む」ということになります。
なにが言いたいのかというと「自分が発するものが、自分と自分の周りの環境を形成する」ということです。
わたしの場合は、丁寧なフォロワーさんに囲まれたということですね。
つまり、このように「自分の発する思考、言葉、行動の持つ力強さ」がわかると、体感として自分の思うように世界を変えていけることもわかるようになるので、今自分が発していることが、今の自分の世界を作っているというダイナミズム、もう少し大げさに言えば、自分が自分の世界の創造主であるかのようなダイナミズムを感じることができるようになるのです(わくわくしますね)。
ここでいう世界とは、いわゆる物理的な世界ではなく、自分の周りを囲んでいる環境のこと、具体的には自分自身が実際に接する家族、友人、職場、フォロワーさんなどの人間関係のことを指します。
一時期、引き寄せの法則というものが流行りましたが、あれはわたしの体感として別の言い方をしますと「全てのことは原因と結果で成り立っているため、未来に望ましい結果を望むのであれば、その結果が出てくるような原因を今作ればよい。今作った原因によって望んだ未来が引き寄せられる」と言う感じになります(引き寄せるというよりも、自分で創造しているという感じの方が近いですが…)。
その望ましい結果を出すために自分ができること(自分がコントロールできるもの)が、思考、言葉、行動なのです。
チャンスは人が運んできますから、その確率を上げるためには、自分の周りによい人がたくさんいることが必要となります。
そして、自分の周りによい人を集めるためには「同じ波動の人は引き合う」という波動の法則から、自分自身がそのような人になる必要があります。
つまり、自分が運に恵まれ幸せになるためには、ただただ自分のことを少しずつ少しずつ魅力的にしていけばよいということになります。
ちなみにですが、わたしの座右の銘は「昨日の自分よりちょっとだけマシな人間になる」です。
話がずれましたが、タイトルの「不幸と災いを招く確率を下げる方法」として「瞑想」があります。なぜならば瞑想をすることで、自分の思考や感情に気づけるようになるからです。
そうなると、自分がこれから何を話そうとしているのか、また、どのような行動をしようとしているのかに気づけるようになります。
つまり、その言動は自分が不幸になる原因を作ってしまうのか、不幸にならない原因を作っているのかが、言動の前に選定できるようになるのです。
これは、幸せになるアプローチではなく、不幸にならないアプローチです。イメージで言うと、幸せの種をまこうとするのではなく、自分が不幸の種をまこうとしていることに気づき、不幸の種をまかないようにするアプローチです。
端的に言えば、幸せを増やすのではなく、不幸を減らすアプローチです。
わたしはこれを実践したことで、失言の回数が驚くほど減ったため、災いを招く確率が減り、仮に災いに遭遇したとしても、それをボヤのままで終わらすことができるようになりました。
言い換えれば、自ら火に油を注ぐような失言をすることが無くなったということです。
これは極めて実践的な苦しみを抜く方法ですので、是非みなさまにお試しいただきたいと思い記事を書きました。
具体的には、ツイッターの言葉づかいを丁寧にする。結果が自他の抜苦与楽にならなさそうなツイートはしない(不幸の種をまかない)。プラユキさんの手動瞑想をすることで気づきの力を高め、自分の発言に気づけるようになることで、失言を言わないようにする(正に沈黙は金ですね)ということです。
ちなみに、この手動瞑想により体得できる「気づきの能力」は一度体得すると、ずっと使用可能です。イメージで言うと、一度自転車に乗れるようになったら、必要な時にずっと乗れるイメージです。ですので、がんばって(遊び心を持って楽しんで)体得してみてください。
ここまでお読みになられてお気づきになられたかも知れませんが、仏道的には「何かをする」というよりも、「何かをしない」というアプローチを取ります。
つまり「幸せになることをする」のではなく、「不幸になることをしない」ことで不幸の発生確率が下がるため、相対的に幸せな時間が増えるというカラクリなのです。
これらの実践はとても簡単ですし、お金もかかりません。また、どこかへ行く必要もなく、今ここで、どんな場所でも誰でも今すぐにできる方法ですので、ぜひぜひ実践していただければと思います。
この記事を読まれた方といきとしいけるものの悩み苦しみがなくなりますように。
以上、やけに仏教に詳しいあの人でした。それではみなさまごきげんよう。
クソリプ苦から解放されました
みなさまごきげんよう。やけに仏教に詳しいあの人です。
みなさまはクソリプに苦しんでますか?わたしは苦しんでおり、実際にメンタルをアレして4か月間(2021年1月〜2021年5月)ツイッターをお休みした経験がございます。
そんなわたしが今回ちきりんさんの新刊を読み、あ、こうすればクソリプ苦から解放されるのかーと気づき、実際に実践したところ、その効果を実感したため、今回はクソリプからの解放についてお話しいたします。
読んだ本はちきりんさんの新刊「自分の意見で生きていこう」という本です。
端的に内容を申し上げますと「意見と反応の違いについて知ろう!そんじゃあね♪」というものです。
みなさまは意見と反応の違いがわかりますか?
意見と反応の違いについてご説明する前に、まず、意見についてハッとしたことがありました。
それは、意見には正しい意見や誤った意見はないということ。
1+1=2のように、正解があるものには正誤があるけれど、意見には正しい意見はないし、誤った意見もない。ということです。
今まではこのあたりをごっちゃにしていたのですが、こちらの本を読んだ時にとてもすっきりしました。
それはちょうど、初めてひろゆきさんの「それってあなたの感想ですよね?なんかそういうデータあるんですか?」に出会った時のすっきり感に似ていました。
このあたりがごっちゃになっていた時は、ツイッターのリプライが全て均一的に見えていたため、どれがクソリプなのか、的を射た意見なのかがわからず振り回されていましたが、あ、なーんだこれはこの人の感想か、ということがわかると、その感想リプライについては肯定も否定もする必要がないので気が楽になりました。あ、あなたはそう思ってるのね。という感じです。
一方で「なんかそういうデータで語ってくる人」に対しては、何をもとにそのリプライをしてきているのかがわかるので(言い方のキツさは別にしろ)、リプライからダメージを受けることはまずありません。
これらのひろゆきさんの「感想かデータか」と同じように、ちきりんさんの本は「それってあなたの反応ですよね?あなたのポジションはどこですか?なんかきちんと考えた意見あるんですか?」ということを教えてくれました。
ちなみに仏道では「誤った見解を持つこと(特にその意見に執着すること)から苦しみが生じる」と教えており、これがまた実際にそうなので、わたしはこれまで意識的に見解を持つことを手放していく訓練をしていました。
事実、手放す訓練を続けることで実際に苦しみが減っていったので、それはそれでありがたかったのですが、最近「なーんか自分は極端に片寄っていないかなぁー」と思っていたところでした。
ちょうどそのような時に出会ったのがこの本で、わたしのなかのもやもやをキレイに言語化してもらった感じがしました。いやー本当にわたしって運がいいですね(水野晴郎さん風に)。
これまでのわたしはツイッターでの炎上を恐れるあまり、たとえ後でどんなリプライをもらっても、いかようにも回答できる全方位的なツイートを心がけてしていました(こずるいですね)。
要は、あることについて賛成か反対かを明確にしてしまうと、どうしても対立構造が出来上がってしまい「それは違うと思います!(ふがふが)」的な鼻息の荒いリプライを誘因してしまうので、それを避けるためにあえて明確なポジションを取らず、賛成か反対かを明言しない言い回しをしていたのです。
正直なところ、自分ではなかなかうまい立ち回りができているなと思いましたが、これがどうやら仕事においてはこの立ち回りがうまく機能しないということに気づきました。でも、なぜそれが機能していないのかはわかりませんでした。
今はもうわかりましたが、その理由は、わたしのこの立ち回りは、意見ではなく反応だったからです。
ツイッターなどで発信していると、あたかも自分の意見を言っているように錯覚してしまいますが、意見というのは「自分のポジションを明確にしていること」なので、ポジションを明確にしていない発言は意見ではなく反応なのです。
なぜわたしが意見ではなく反応をしていたのかを分析したところ「自分が否定されることを恐れていたこと」、「意見には正しい意見と間違えた意見があると誤解していたこと」、「考えることが面倒くさくて怠けていたこと」だということがわかりました。
自分自身では意見であると思っていたツイートが実は意見ではなく反応であることに気づいたように、わたしのツイートに対するリプライにも、自分のポジションを明確にしない反応とポジションを明確にしている意見の二種類があることに気づきました。
その気づきによって、わたしのツイートに対し「賛成か反対かのポジションを取らずただ反応してきている批判的なリプライ」については別に心を悩ます必要がないし、反対に、「ポジションを明確にした意見で、かつ、感想ではなくなんかそういうデータで語っているリプライ」については正面から向き合う余地あり。とスクリーニングできるようになったのです。
ひろゆきさんの言う「あなたの感想」と「なんかそういうデータ」の違いはわかりやすいのですが、反応と意見は選別がつきづらかったため、今までリプライに頭と心を悩ましていましたが、このスクリーニング方法を知ってから、ウソのように今まで感じていた悩み苦しみから解放されたので、その効果と喜びをみなさまにご共有させていただきたいと考えこの記事を書かせていただきました次第です。
この記事の考え方が少しでも多くの人に広まることで、かつてのわたしのようにSNSで悩み苦しんでいる人たちが一人でも減りますことを心の底から祈念しております。
こちらの記事をご覧になられているみなさまと、いきとしいけるものが幸せでありますように、悩み苦しみがなくなりますように、願いごとがかなえられますように。
以上です。
それではみなさまごきげんよう。やけに仏教に詳しいあの人でした。
プラユキさんにお会いしました
みなさまごきげんよう。やけに仏教に詳しいあの人です。
本日プラユキさんの瞑想会に初参加させていただいたのですが、
あぁーこれでよかったんだー。
率直な感想がこれでした。
わたしは「なにごとも実生活に役立ってなんぼ」と思っているので、2017年から学び始めた仏道についても自分なりに色々と実生活の中で実践し、それが実際に役立つことを体感しておりましたが、自分の周りで、自分以外の誰が仏道を実践しているかわからないので、ある意味で自分なりに手探りで実践するしかなく、はたして今、自分が実践していることが犀の角なのか、はたまたひとりよがりなのか、といううっすらとした疑念がぬぐえなかったのです。
そのような中、仏道の実践者であるプラユキさんにお会いし、そのプラユキさんのリアルな対話や問答を拝見したことで、あぁーこれでよかったんだー。あぁーわたしのやっていること、進んでいる方向は間違えてなかったんだー。と思えたのです。
なんと言いますか、今までは、この仏道と言うよさそうな道を進んで行ったらどうなるのだろう。前にどんな人がいるのかわからないけど、色々と調べて実践してる限りよさそうだから慎重に進んでいくかー。という感じだったのですが、今日、プラユキさんと言う先を歩かれている先輩にお会いし、その生のやり取り(言葉づかいや言葉の選び方や所作)を拝見したことで、あー!この道を進むとこういう感じになるのかー!よかったー!という気持ちになったのです。
引き続き犀の角で進んで行きますが、今日の体験をもって、わたしはもう迷う犀ではなく、よい意味での自信を持った犀になることができた気がします。
余談ですが、ツイッターですとこの感覚を記すのが難しいので、本当にたまたまですが、とてもよいタイミングでブログを始められたなぁとも思いました。
以上、やけに仏教に詳しいあの人でした。それではみなさまごきげんよう。
瞑想の神秘体験は脳の錯覚です
みなさまごきげんよう。やけに仏教に詳しいあの人です。
今回は瞑想についてお話しさせていただきます。
瞑想をする目的は、究極的には解脱をすることなのですが、これは言い換えると苦しみを終わらせることであり苦しみを乗り越えること。もっと前の段階で申し上げますと、苦しみを減らすことになります。
わたしは「へぇー苦しみが減らせられるならいいなぁー」という思いから瞑想を始めました。
ただ、身近に瞑想をしている人がいなかったことと、なんとなく瞑想をしている人というとなんだかちょっとアレな人。という謎のイメージがわたしの中にあったので(今はありませんし、自分で試してみて効果を体感できたので、堂々と人に紹介しておりますが)、初めて実際に瞑想をした時はかなり勇気がいりました。
そのため、しばらくは家族が寝静まった時にこっそりとやっておりました(笑)
瞑想にも色々な種類があるですが、わたしがやっているのは、手動瞑想、慈悲の瞑想、ヴィパッサナー瞑想と言われるものです(ちなみに、解脱するための唯一方法はヴィパッサナー瞑想と言われています)。
わたしはYou Tubeや本を読んでこれらの瞑想を実践しました。瞑想実践の最初の最初の一回目に、いきなり天井から降り注ぐ真っ白な光に包まれるような、いわゆる神秘体験的なものを体験しました。
率直な感想としては「え、え、えっ?あら?なにこれ、目を閉じてるのにあっちの方が明るい…え、なんで?あ、光だ…上の方に光の点がある…え、あら?おぉー、えっ、これが神秘体験?え、なにこれ、えっ、これがウワサのアレ?いや、えっ、うれしいけどなんかこわっ!こっわっ!えっ、なにこれ、めっちゃ意識が鮮明!え、ちょっと待って待って、なにこれニフラム(ドラクエの呪文)?ニフラムなの?えっ、なに?ってことはあたし消えちゃうの?えっ、いや、ちょっと待って、えっ、これ戻ってこられるの?え、どうしよう、なにこれこわい、いや、光そのものにこわさはないけど戻ってこれなかったらこわーい!え、えーっと、えっと、えーっと、も、もったいないけど目を開けよう!えいやっ!えいやっ!カッ!(目を見開く)」という感じでした。
実はこれは「瞑想中に起きるただの脳の錯覚(?)であって、別に神秘体験でもなんでもない」ということを事前に知識として知っていたので「ひぇー、びっくりしたー、はぁー、これがそれかー、ひぇーすごいなぁー、はぁ…ふぅ…」という感じで済みましたが、もしも事前知識としてそれを知らなければ「わたしは光に包まれた!」「神の啓示があった!」「わたしは選ばれた!」などという、変な勘違いをしてしまっても全く不思議ではない現象だなと思いました。
それはちょうど、昔の人々が、月食や日食を見た時に、そのからくりを知らないがゆえに恐れおののいたり、そこに神秘性を見出したりしたことに似ているのかも知れません。
瞑想は最終的には解脱にいたるための方法ですが、瞑想により神秘体験を得ようとしたり、瞑想からなにかを求めたりするような行為ではなく、ただただ気づいていくことだと思っています(解脱をするためにがんばろうという意欲はオーケーです)。
このような感じで試行錯誤の手探りで色々な瞑想を試したわたしですが、もしもわたしが過去の自分に会えるとしたら、次のようにアドバイスすると思います。
最初は手動瞑想からスタートして、たとえ手の位置に気づき続けようとしていても、気がついたらいつの間にか手の位置に気づけなくなっており、頭の中のおしゃべりに気持ちが向いてしまっていること。それと同時に自分の意思とは関係なく、頭の中で勝手におしゃべりが発生してしまうこと(頭の中のおしゃべりは自分のものではなく勝手に生じては変化すること)に気づく訓練をするといいですよ。
次に、あるいは同時に、慈悲の瞑想で慈悲の力を鍛えてください(慈悲は鍛えないと育ちません)。
そして最後にヴィパッサナー瞑想にチャレンジするといいですよ。と伝えると思います。
手動瞑想とヴィパッサナー瞑想で鍛えられる力は気づきの力(智慧)
慈悲の瞑想で鍛えられる力は自他の抜苦与楽の力(慈悲)です。
以上、これから瞑想を始めてみようかなと思う方の参考になれば幸いです。
それではみなさまごきげんよう。
自己紹介
みなさまごきげんよう。やけに仏教に詳しいあの人です。
これまでわたくしがどのような思想に影響を受けたのかをご紹介することが、最大の自己紹介になるかと思いましたので、こちらにご紹介させていただきます。だいぶ偏りがわかると思います(笑)
わたくしが影響を受けた思想遍歴
浅見 帆帆子
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↓
↓
齋藤 孝
↓
城咲 仁
↓
福沢 諭吉
↓
小林 正観
↓
斎藤 一人
↓
ジョセフマーフィー
↓
小林 よしのり
↓
世界の名言集
↓
世界のジョーク集
↓
福本 伸行
↓
桜井 章一
↓
中邑 真輔
↓
↓
↓
塩田 剛三
↓
羽生 善治
↓
舩井 幸雄
↓
中村 天風
↓
本田 健
↓
↓
タルムード
↓
竹田 和平
↓
ロバートキヨサキ
↓
インベスターZ
↓
↓
パンローリングシリーズ
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行動経済学全般
↓
マンガでわかる心療内科シリーズ
↓
↓
心理学全般
↓
アンソニーロビンズ
↓
断捨離シリーズ
↓
ずるい考え方
↓
須藤 元気
↓
ワールドオーダー
↓
バシャール
↓
さとうみつろう
↓
量子論系
↓
飯田 史彦
↓
↓
石井 一久
↓
4スタンス理論
↓
新庄 剛志
↓
エックハルトトール
↓
ジェフリーバーマン
↓
↓
ジルボルトテイラー
↓
↓
飲茶
↓
マンガでわかるシリーズ(宗教・哲学)
↓
↓
マンガ サ道
↓
天野 和公
↓
釈 宗演
↓
苫米地 英人
↓
張 永祥
↓
↓
↓
勝間 和代
↓
ちきりん
↓
プラユキ
↓
↓
↓
ウジョーティカ
↓
藤本 晃
↓
小池 龍之介
↓
魚川 祐司
↓
ラリーローゼンバーグ
↓
吉田 武士 (カレー坊主)
↓
カマたく (敬称略)
以上です。
またタイミングを見て具体的な本をご紹介していきたいと存じます。
それではみなさまごきげんよう。
わたしが原始仏教に出会うまで
みなさまごきげんよう。やけに仏教に詳しいあの人です。
今日はわたしが原始仏教に出会うまで(沼にはまるまで)についてご紹介します。
「政治、野球、宗教の話は居酒屋でしてはいけない」と教わるほど、公衆の場で気軽に宗教の話をすることはタブー視されています。そのこともあって、現実社会において仏教(宗教)の話を積極的にすることも聞くことも難しいことが現状です。
そのため、わたしが本格的に仏教を勉強をする前の仏教に関する知識としては、浄土宗が法然、浄土真宗が親鸞、時宗が一遍、日蓮宗が日蓮、臨済宗が栄西、曹洞宗が道元(敬称略順不同)などなど、どの宗派の宗祖が誰で~と言ったような、学校で暗記した仏教情報で止まっていました。自分の家が仏教であることはわかるけど宗派はわからないと言った具合ですね。
そんな当時のわたしから見た仏教は「仏教にはお釈迦さまという絶対神がおり、お釈迦さまに助けを求めれば救っていただけるもの」だと思っておりました。
なにせ物心がついた時に最初に出会ったお釈迦さまは「お仏壇の中の仏像」であり、次に出会ったのが「西遊記」、次が「珍遊記」、その次が「くもの糸」で、次が鎌倉や奈良の大仏さん、そして最後が新美南吉さんの作品である「百姓の足、坊さんの足」に登場するお釈迦さま。しかも、一番最初に出会ったお釈迦さま(仏像)については、祖父母が手を合わせて頭を下げているのですから、子ども心に「お釈迦さま=神さま的存在」だと思ってしまっても無理はなかったのかなと思います。
そのため、そんなわたしが原始仏教に出会った時の驚きは以下の通りでした。
- お釈迦さまは架空の神さま的な存在ではなく実在した人間である。
- お釈迦さまはわたしを信じなさいと言っていない。むしろ鵜呑みにするなと言っている。
- お釈迦さまは教団にお布施しろと言っていない。
これらのことは、わたしにとってどれも衝撃的なことでした。なぜなら、それまでいわゆる宗教と言われるものは、すべからく神さまや教祖さまを信じ、崇め、崇拝し、教団にお布施をするものと思っていたからです。
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