瞑想の神秘体験は脳の錯覚です
みなさまごきげんよう。やけに仏教に詳しいあの人です。
今回は瞑想についてお話しさせていただきます。
瞑想をする目的は、究極的には解脱をすることなのですが、これは言い換えると苦しみを終わらせることであり苦しみを乗り越えること。もっと前の段階で申し上げますと、苦しみを減らすことになります。
わたしは「へぇー苦しみが減らせられるならいいなぁー」という思いから瞑想を始めました。
ただ、身近に瞑想をしている人がいなかったことと、なんとなく瞑想をしている人というとなんだかちょっとアレな人。という謎のイメージがわたしの中にあったので(今はありませんし、自分で試してみて効果を体感できたので、堂々と人に紹介しておりますが)、初めて実際に瞑想をした時はかなり勇気がいりました。
そのため、しばらくは家族が寝静まった時にこっそりとやっておりました(笑)
瞑想にも色々な種類があるですが、わたしがやっているのは、手動瞑想、慈悲の瞑想、ヴィパッサナー瞑想と言われるものです(ちなみに、解脱するための唯一方法はヴィパッサナー瞑想と言われています)。
わたしはYou Tubeや本を読んでこれらの瞑想を実践しました。瞑想実践の最初の最初の一回目に、いきなり天井から降り注ぐ真っ白な光に包まれるような、いわゆる神秘体験的なものを体験しました。
率直な感想としては「え、え、えっ?あら?なにこれ、目を閉じてるのにあっちの方が明るい…え、なんで?あ、光だ…上の方に光の点がある…え、あら?おぉー、えっ、これが神秘体験?え、なにこれ、えっ、これがウワサのアレ?いや、えっ、うれしいけどなんかこわっ!こっわっ!えっ、なにこれ、めっちゃ意識が鮮明!え、ちょっと待って待って、なにこれニフラム(ドラクエの呪文)?ニフラムなの?えっ、なに?ってことはあたし消えちゃうの?えっ、いや、ちょっと待って、えっ、これ戻ってこられるの?え、どうしよう、なにこれこわい、いや、光そのものにこわさはないけど戻ってこれなかったらこわーい!え、えーっと、えっと、えーっと、も、もったいないけど目を開けよう!えいやっ!えいやっ!カッ!(目を見開く)」という感じでした。
実はこれは「瞑想中に起きるただの脳の錯覚(?)であって、別に神秘体験でもなんでもない」ということを事前に知識として知っていたので「ひぇー、びっくりしたー、はぁー、これがそれかー、ひぇーすごいなぁー、はぁ…ふぅ…」という感じで済みましたが、もしも事前知識としてそれを知らなければ「わたしは光に包まれた!」「神の啓示があった!」「わたしは選ばれた!」などという、変な勘違いをしてしまっても全く不思議ではない現象だなと思いました。
それはちょうど、昔の人々が、月食や日食を見た時に、そのからくりを知らないがゆえに恐れおののいたり、そこに神秘性を見出したりしたことに似ているのかも知れません。
瞑想は最終的には解脱にいたるための方法ですが、瞑想により神秘体験を得ようとしたり、瞑想からなにかを求めたりするような行為ではなく、ただただ気づいていくことだと思っています(解脱をするためにがんばろうという意欲はオーケーです)。
このような感じで試行錯誤の手探りで色々な瞑想を試したわたしですが、もしもわたしが過去の自分に会えるとしたら、次のようにアドバイスすると思います。
最初は手動瞑想からスタートして、たとえ手の位置に気づき続けようとしていても、気がついたらいつの間にか手の位置に気づけなくなっており、頭の中のおしゃべりに気持ちが向いてしまっていること。それと同時に自分の意思とは関係なく、頭の中で勝手におしゃべりが発生してしまうこと(頭の中のおしゃべりは自分のものではなく勝手に生じては変化すること)に気づく訓練をするといいですよ。
次に、あるいは同時に、慈悲の瞑想で慈悲の力を鍛えてください(慈悲は鍛えないと育ちません)。
そして最後にヴィパッサナー瞑想にチャレンジするといいですよ。と伝えると思います。
手動瞑想とヴィパッサナー瞑想で鍛えられる力は気づきの力(智慧)
慈悲の瞑想で鍛えられる力は自他の抜苦与楽の力(慈悲)です。
以上、これから瞑想を始めてみようかなと思う方の参考になれば幸いです。
それではみなさまごきげんよう。