やけに仏教に詳しいあの人のブログ

プロフィール:https://urlzs.com/4GQEZ:ツイッター:https://twitter.com/waraikatahohoh

わたしが原始仏教に出会うまで

みなさまごきげんよう。やけに仏教に詳しいあの人です。

今日はわたしが原始仏教に出会うまで(沼にはまるまで)についてご紹介します。

「政治、野球、宗教の話は居酒屋でしてはいけない」と教わるほど、公衆の場で気軽に宗教の話をすることはタブー視されています。そのこともあって、現実社会において仏教(宗教)の話を積極的にすることも聞くことも難しいことが現状です。

そのため、わたしが本格的に仏教を勉強をする前の仏教に関する知識としては、浄土宗が法然浄土真宗親鸞時宗が一遍、日蓮宗日蓮臨済宗栄西曹洞宗道元(敬称略順不同)などなど、どの宗派の宗祖が誰で~と言ったような、学校で暗記した仏教情報で止まっていました。自分の家が仏教であることはわかるけど宗派はわからないと言った具合ですね。

そんな当時のわたしから見た仏教は「仏教にはお釈迦さまという絶対神がおり、お釈迦さまに助けを求めれば救っていただけるもの」だと思っておりました。

なにせ物心がついた時に最初に出会ったお釈迦さまは「お仏壇の中の仏像」であり、次に出会ったのが「西遊記」、次が「珍遊記」、その次が「くもの糸」で、次が鎌倉や奈良の大仏さん、そして最後が新美南吉さんの作品である「百姓の足、坊さんの足」に登場するお釈迦さま。しかも、一番最初に出会ったお釈迦さま(仏像)については、祖父母が手を合わせて頭を下げているのですから、子ども心に「お釈迦さま=神さま的存在」だと思ってしまっても無理はなかったのかなと思います。

そのため、そんなわたしが原始仏教に出会った時の驚きは以下の通りでした。

  1. お釈迦さまは架空の神さま的な存在ではなく実在した人間である。
  2. お釈迦さまはわたしを信じなさいと言っていない。むしろ鵜呑みにするなと言っている。
  3. お釈迦さまは教団にお布施しろと言っていない。

これらのことは、わたしにとってどれも衝撃的なことでした。なぜなら、それまでいわゆる宗教と言われるものは、すべからく神さまや教祖さまを信じ、崇め、崇拝し、教団にお布施をするものと思っていたからです。

お釈迦さまは北インド・ネパール辺りにあった釈迦国という国の王子さまで、生活に不自由することのない文武両道のイケメンの超絶リア充でした(う…うらやましいっ!)。しかし、これは違うと思い29歳で突如出家(家出)、瞑想によって35歳で悟りを開きます。余談ですが、わたしがこの話を知った時は35歳になっていなかったので「あ、それならわたしもがんばればワンチャン悟れるのでは?」とやけに興奮した覚えがあります。

お釈迦さまが悟った(発見した)ことは、苦しみを乗り越える方法です。お釈迦さまは35歳で悟ってから80歳で食中毒で亡くなるまで、この苦しみを乗り越える方法を広め続けました。こちらも余談ですが、お釈迦さまが普通にお腹を壊してお亡くなりになり、その後、復活などをしていないことにも驚きました。なんでしょう、普通、宗教の開祖さまの死って、なんだか華々しい人間離れしたエピソードとかがあってもよくないですか?

と、このようにお釈迦さまが教えているのは、苦しみを乗り越える方法ですので、そのためにはどうしても相手に話を聞いてもらい、実践してもらう必要があります。そのようなことから、お釈迦さまも「聞く耳がある人に甘露の門は開かれた」とおっしゃっており、そもそも話を聞く気がない人はお釈迦さまでさえも救うことはできないということになっています(ある意味で本人の意思というか自主性を重んじているような気もします)。

つまり、お釈迦さまはどこの誰でもすべからく救う救済者ではなく、苦しみを乗り越える方法を発見し、その方法をわかりやすく広めた伝道者であると理解するとわかりやすいかもしれません。

そういった意味では、お釈迦さま以前にも悟った人はいるのかも知れませんが、お釈迦さまの功績は、その方法を多くの人に広めたことにあると言えるでしょう。

また、お釈迦さまはわたしを信じなさいとは言っておらず、むしろ、わたしの言うことを鵜呑みにしないで下さい。わたしが発見した真理を教えるので、それを実際に自分でやってみて確かめて見て下さい。というスタンスであることにも驚きました。なぜなら、それまでわたしが描いていた宗教というのは、神さまや教祖さま的な何かを信じなくてはならないと思っていたからです。

たしかに仏教でも信というものがあるのですが、これはお釈迦さまの教えを実践した後で「あぁ~本当にお釈迦さまの言っていた通りだったな~」という信頼や確信の信に近いかも知れません。

最後に、宗教と言うと家庭が崩壊してしまうようなお布施の強要のイメージがありましたが、お釈迦さまは教団へのお布施の強要をしていないことにも驚きました。そもそも出家者は全てを捨てて教団に入ってくるので、仮に財産を置いてくるのであれば、それは教団ではなく、自分の家族か故郷になります。

というように、ちょっと勉強しただけでも、どうやら自分の思っていた仏教と、元々の仏教は違うようだぞ。と言うことがなんとなくわかってきました。

そのような中、わたしは仏教というものよりも、苦しみを乗り越えた人間であるお釈迦さまそのものについて関心を持つようになった(なってしまった)のです。

たとえて言うのであれば、野球は知らないけれどイチロー選手は知っている。将棋のことはよくわからないけど羽生さんのことは知っている。もっと言えば、野球とか将棋のルールには興味がないけれど、彼らの生き方には興味があるので、イチローさんや羽生さんの名言集を本屋さんで買って読むようになった(=お釈迦さまの名言集を買うようになった)といったような感じです。

そして、ある日、本屋さんに足を運んだ際に、原始仏教上座部仏教テーラワーダ仏教というコーナーを発見。そこで、スマナサーラさん、プラユキ・ナラテボーさん、小池龍之介さん、魚川祐司さん、苫米地英人さん、齋藤孝さんらの著書と出会い、それらを読むことで、原始仏教の世界へどっぷりと足を踏み入れていくことになったのです。

本日はこのへんで。それではみなさまごきげんよう